岡山地方裁判所倉敷支部 平成6年(ワ)215号 判決 1998年2月23日
原告
甲野花子
原告
甲野一郎
原告
甲野二郎
右三名訴訟代理人弁護士
清水善朗
同
山本勝敏
同
谷和子
被告
川崎製鉄株式会社
右代表者代表取締役
君嶋英彦
右訴訟代理人弁護士
平松敏男
同
木津恒良
主文
一 被告は、
1 原告甲野花子に対し、金二六四三万〇七八〇円
2 原告甲野一郎、原告甲野二郎に対し、各一二八一万四八一一円
及びこれらに対する平成三年六月二〇日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。
二 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
三 訴訟費用はこれを二分し、その一を原告らの負担とし、その余を被告の負担とする。
四 この判決の第一項は仮に執行することができる。
事実及び理由
第一請求
一 被告は、
1 原告甲野花子に対し、金六三四八万〇五五七円
2 原告甲野一郎、原告甲野二郎に対し、各金三一〇〇万五五〇四円
及びこれらに対する平成三年六月二〇日から完済まで年六分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
本件は、被告の水島製鉄所条鋼工程課掛長であった亡甲野太郎(以下「太郎」という。)が、同製鉄所本館ビル六階屋上から飛び降り自殺をしたことにつき、相続人である原告らが、右自殺の原因は残業や休日出勤等の長時間労働によるものであるとして、債務不履行(安全配慮義務違反)に基づく損害賠償を求めた事案である。
一 前提事実
認定した関係証拠を後に記載した。
1 当事者
被告は鉄鋼の製造販売等を目的とする会社であり、太郎は被告水島製鉄所工程部条鋼工程課掛長の地位にあった者である。(争いのない事実)
2 太郎の自殺
太郎は、平成三年六月二〇日午後五時一五分頃、被告水島製鉄所本館ビル六階屋上から飛び降り自殺した。(<証拠略>)
3 条鋼工程課と太郎の職務
(一) 太郎の所属していた条鋼工程課は、さらに鋼片・線棒グループと形鋼グループに分かれている。綱(ママ)片・綿棒グループは綱(ママ)片工場、線棒工場、溶接棒工場の生産の管理を担当し、形綱(ママ)グループは大形工場、中形工場(大和電機(ママ)製鋼)、電気炉(大和電機(ママ)製鋼)の生産管理を担当している。形綱(ママ)グループは二〇名の従業員で構成されており、計画グループ、命令グループ、進捗グループに分かれていた。
計画グループはロールスケジュール(素材のバランスや圧延の順番等のスケジュール)や素材の発注スケジュールを担当し、命令グループは具体的な素材の発注と形鋼工場への圧延命令を出し、進捗グループは圧延が終わった後の製品の精製処理、仕上げ処理、更に倉庫に入れて出荷するまでを担当している。
なお、条鋼工程課の課長は、平成二年七月から太郎の死亡時まで、橋本元志(以下「橋本」という。)が勤(ママ)めていた。(争いのない事実)
(二) 太郎は、平成二年四月、条鋼工程課形鋼グループに転任してきたが、当時形鋼グループ掛長は稲木達雄(以下「稲木」という。)、形鋼計画総括担当が太郎、電炉計画立案調整が石光猛(以下「石光」という。)、大形工場担当が青木和男(以下「青木」という。)、中形工場担当が梅林大介(以下「梅林」という。)で、計画グループ部員は四人であった。(争いのない事実)
(三) 太郎は、平成三年一月、掛長に昇進し、これに伴い、稲木と青木が他の部署に転出し、太郎の後任として石光が形鋼計画総括となり、青木の後任として中ノ瀬良二(以下「中ノ瀬」という。)が大形工場を担当することになり、計画グループ部員は三人となった。(争いのない事実)
4 相続
原告甲野花子は太郎の妻(法定相続分二分の一)、原告甲野一郎は長男、原告甲野二郎は二男(法定相続分各四分の一)であり、原告三名が太郎の権利義務を相続した。(原告花子、戸籍謄本)
5 遺族補償給付
原告らが太郎の自殺につき申請していた労働者災害補償保険法による遺族補償給付等の請求につき、倉敷労働基準監督署は平成九年七月一一日、太郎の自殺と業務との因果関係を否定し、遺族補償給付等の不支給決定をした。(<証拠略>)
二 争点
本件における主たる争点は、太郎の被告における労働時間が、社会通念上許容される範囲を超えた過剰なものであったかどうか、過剰なものであったとして、太郎の長時間労働と自殺との間に相当因果関係が認められるかどうか、また太郎が過剰な長時間労働をしていたためうつ病に罹患し、その結果自殺したことにつき、被告に安全配慮義務違反等の債務不履行が認められるかどうか、更に、損害算定に当たり、太郎ないし原告ら側に存する事情により損害額を減額すべきかどうか、である。
1 太郎の労働時間の過剰性
(原告らの主張)
(一) 条鋼工程課を取り巻く環境
(1) 昭和六三年後半からの景気の急激な回復、いわゆるバブル景気により形鋼工場は大形工場、中形工場ともにフル稼働となった。昭和六三年当時二直交替勤務(一日を八時間ずつの三班に分け、内二班だけが稼働する。したがって一日一六時間稼働となる。)であったものが、昭和六三年後半から三直三交替勤務(一日二四時間操業)になり、太郎が掛長に昇進した平成三年頃から四直三交替勤務(一日二四時間操業で、工場が年中休みなく稼働する方式)の協議に入り、同年八月から実施となったが、当時は需要が旺盛で、被告は生産能力向上のため努力していた。
(2) 平成元年に生産を開始したスーパーハイスレンドH鋼(ママ)(以下「SHH」という。)は、製鉄業界の久々のヒット商品となり、会社内外の注目度は極めて高かった。製造は他の製品に比べて難しく、圧延後の仕掛品(製品を合格させるためにプレス矯正等する必要のあるもの)が大量に発生し、生産量を増やすことができない状態にあり、そのため、従来大形工場が製造していたSHHの一部を中形工場に移動するなどの措置を講じていたが、抜本的解決とはなっていなかった。
(3) 平成二年頃から東京湾横断橋用長尺鋼矢板問題が出ており、生産に力を入れたがそれまで被告が製造した経験のない長尺(長い)製品であったため全製品が仕掛品という状態であった。
また、同年頃からY形鋼の生産に入り、平成三年八、九月頃から生産開始となった。
(4) 平成二年一二月から大和電気製鋼水島電気炉工場が稼働を開始していたが、初期トラブルが発生していた。そのため、増産の要請に応じることができず、調整に苦慮していた。
このような環境の下で、工程部門は顧客と生産現場の間に立ち、調整に追われる状況にあった。前記のように形鋼品種は季節変動が激しい傾向があったが、当時は季節を問わずとにかく生産規模を高める必要があり、常に注文と生産の調整に追われる状態にあったのである。
(二) 太郎の職務内容
(1) 一般的内容
太郎は、平成二年四月、条鋼工程課形鋼グループに転任してきた当時はその中の計画グループで電炉システムと中形工場を担当し、グループ掛員のトップ、掛長補佐的な立場にあったが、平成三年一月、掛長昇進後は主任部員として形鋼グループを担当し、計画グループ、命令グループ、進捗グループ全体を総括する立場となり、中間管理職として以前に増して会社全体の経営状態、経営戦略に従って自らも含めた担当部員の指揮監督、課題達成を求められるようになった。
(2) 掛長昇進以前
<1> 太郎が形鋼グループに転任してきた平成二年四月当時、形鋼グループ掛長は稲木、形鋼計画総括担当が太郎、電炉計画立案調整が石光、大形工場担当が青木、中形工場担当が梅林で、計画グループ部員は四人であった。
<2> 平成二年四月から一二月の大きな課題はSHHと東京湾横断橋用長尺鋼矢板の注文から納入までの工程管理であった。しかし、当時は稲木が掛長をしており、稲木には片腕となる太郎がいたこと、大形工場には手慣れた青木もいたこと、掛員も太郎を含め四人いたこと、などから太郎に過度な負担がかかるという状況にはなかった。
(3) 掛長昇進後
<1> 太郎の掛長昇進に伴い、大形工場を担当していた青木が他の部署に転出した。太郎は中形工場には詳しかったが大形工場には詳しくなかったこと、大形工場に詳しかった稲木も転出したことから後任の中ノ瀬に不安が残ったが、一月一杯青木との引き継ぎがされただけで経験のない中ノ瀬が大形工場の計画立案、工程管理に当たることとなった。また、太郎に代わって形鋼計画総括となった石光は太郎に比べて熟練度に劣り、殻(ママ)となる存在としては落ちた。
これら事情から、太郎は掛長昇進直後から大きな戦力ダウンの状況下で仕事をすることを余儀なくされた。
<2> 平成元年一一月より大形工場で生産が開始されていたSHHは、被告の期待にもかかわらず仕掛品が多く納期達成率が悪かった。加えて大形工場担当の中ノ瀬が仕事の覚えが悪く、太郎は仕事を覚えさせるのに時間をとられた。
SHHは、溶接H鋼(ママ)より値段が安くてリードタイム(注文を受けてから出荷するまでの時間)も遜色ないということを売り物にしており、従来のH鋼(ママ)以上に厳格な納期管理が求められていたことから、業務負荷は増大していた。平成三年四月からはSHHのフルサイズの生産にはいるということで環境面はいよいよ大変な局面にあった。
平成三年六月一〇日開催のテレビ会議では、本社営業課長江黒から納期達成率が悪いのでどうにかしてくれと求められ、工程部として納期を守るためにあらゆる方策を練る必要があった。
<3> 平成二年からの課題であった東京湾横断橋用長尺鋼矢板の生産が平成三年から開始されたが、受注が増えると仕掛品が増えて大形工場の精製能力面で悪影響が出て、生産に限界がある状況だった。
また、大形工場では、SHHと東京湾横断橋用長尺鋼矢板の仕掛問題が加わって計量ロールHを含めた全体としての仕掛問題をどう見直すかの問題も起こっていた。
<4> 鋼矢板の一種で新製品のY形鋼は平成二年頃から生産協議が始まり、平成三年八、九月頃から生産開始となったが、太郎は掛長昇進後、早期実現に向けて生産管理システムの設計に従事していた。
<5> 太郎が掛長に昇進した当時はバブル景気で鉄鋼需要が旺盛であり、これに応えるため工場の稼働能力を高める必要が生じ、掛長昇進頃より従来の三直三交替勤務に代わる四直三交替勤務の協議が開始され、平成三年八月より実施となった。太郎は四直化にともない生産量が増えることから、製品をいかにスムーズに顧客に提供するかを考えていかねばならない立場にあった。
<6> 太郎には右以外に、碧南火力発電所建設にあたって鋼矢板の製造、出荷を検討しシンキンググループやサジェスチョンシステムなどで部下の育成を図り、毎年一月末と七月末に行われる利益計算を処理するなど多忙な職責があり、現状抱える問題について思いを巡らしながらも足もとの業務に忙殺される日々であった。
(三) 太郎の長時間労働と休日労働の実態
被告の所定勤務時間は午前八時三〇分から午後五時八分、昼休みが午後〇時から〇時四五分であったが、平成二年四月形鋼グループに転任となって後、太郎は、午前八時三〇分までには出社し、帰宅時間は午後一〇時から一二時の間で、月二、三回は午前二時頃まで仕事をし、土曜、日曜にもほとんど出勤していたが、掛長昇進後は右の職務内容のため、午前八時前後に出社し、午後一一時から一二時に退社するという長時間の勤務をせざるを得なくなった。週二、三回は午前〇時を過ぎて帰宅するようになり、ひどい時には一週間続けて午前〇時を過ぎて帰宅することもあった。太郎が掛長昇進後会社に行かなかった日は、わずかに一月一日と六月一五日の二日だけであり、土曜、日曜も午前九時、一〇時には出勤し、午後九時、一〇時に帰宅するという異常な長時間労働を強いられるに至った。
被告は、太郎は、平成三年一月掛長昇進後、労働基準法第四一条第二号の「管理の地位にある者」として、就労時間の管理その他の就業管理を自分自身で行う立場にあったと主張するが、太郎は経営方針や労働条件の決定についての権限を有しておらず、職務遂行について広い裁量権を有していたわけでもなく、労働時間の管理を受けており、高額の給与を受けていたわけでもなく、太郎は労働基準法第四一条第二号の「管理の地位にある者」には該当しない。
(四) 太郎の過重な責任
太郎は掛長という立場にともなう過重な責任を負わされていた。
(被告の主張)
(一) 仕事の習熟
太郎は、昭和四五年に入社以来、平成三年六月に亡くなるまでの二一年の間、一五年間条鋼工程課で製品の生産管理の仕事に従事し、昭和五八年四月から昭和五九年一〇月までは、大形工場の仕事に従事していた。
太郎は昭和六一年一一月から昭和六二年九月までの間、条鋼工程課形鋼グループで掛長代行として実質的に掛長業務を経験している。
従って、太郎は条鋼工程課形鋼グループの仕事全般に習熟していた。
(二) 管理職と残業・休日出勤
(1) 太郎は、平成三年一月掛長昇進後、労働基準法第四一条第二号の「管理の地位にある者」として、就労時間の管理その他の就業管理を自分自身で行う立場にあり、現に行っていた。
すなわち、太郎は条鋼工程課形鋼グループ所属の部下二〇名を抱える管理職として、部下及び自分の仕事を割り振り、各人の仕事量(所定労働時間+残業+休日出勤)を決定する権限を有していた。これは掛長が使用者の一員であることに由来しており、その結果掛長に対しては、一般従業員と異なり、原則として労働時間による拘束はなく、一般従業員に適用される所定労働時間を超える労働(いわゆる残業や休日出勤)は、掛長自らの判断に委されているのである。
従って、残業及び休日出勤という概念は掛長には該当せず、残業手当及び休日出勤手当も支払われない反面、遅刻、早退などによる給与カットもなされない。
(2) 太郎が夜遅く帰宅したこと(残業ではない)及び休日の出勤は被告の命令や事実上の強制によるものではない。
また、太郎の仕事量、仕事内容から考えても原告らが主張するように太郎が夜遅く帰宅したり、休日に出勤する必要はなかった。
太郎が夜遅く帰宅したり、休日に出勤したことは、専ら太郎本人の意思によるものであり、太郎本人の仕事のやり方の問題である。
(三) 太郎の職務内容
(1) 掛長昇進以前
太郎は、平成二年四月、形鋼グループに転任してきた当時はその中の計画グループに属し、電炉システムと中形工場を担当し、更に大和電気製鋼株式会社のコンピューターのシステムプランナーとしてコンピューターシステムを担当し、また徐々に条鋼工程課の掛長の行う業務を引き継ぎ、実質的には条鋼工程課の掛長の仕事をこなすようになった。
平成二年四月当時、計画グループは太郎、石光、青木の三人であり、同年八月になって梅林が加わり四人体制になったが、これは本来の定員より一人多い状態であった。
(2) 掛長昇進後
<1> 太郎の掛長昇進に伴い、大形工場を担当していた青木が他の部署に転出し、その後任として平成三年一月に中ノ瀬が条鋼工程課鋼片線棒グループから配置換えになった。
青木の移(ママ)動により計画グループは本来の三人体制に戻った。
<2> 太郎は、掛長に昇進したことにより概略次のような業務を担当することになった。
a 担当品種またはプロセスの業務総括
b 部下の育成、指導
c 労務管理
このうち、右a及びbの業務については、太郎は平成二年四月に形鋼グループに配属後、掛長昇進前から、既に実質的に行っていた。
(3) 掛長昇進後の業務内容
掛長昇進後の太郎の業務内容は客観的には質量ともに太郎に過重な負荷を強いるものではなかった。
<1> 被告は太郎が円滑に掛長職に入り込み慣れることができる様、種々の配慮をしていた。
(イ) 太郎が平成二年四月に工程部生産管理技術室から工程部条鋼工程課形鋼グループに配置換えになったのは掛長に昇進することを見越した人事であり、現実に太郎は配置換え後、平成二年一二月までの間は労務管理業務を除いて掛長の行うべき総括業務、部下の指導等をおこなっていたのである。
なお、太郎はこの他にも掛長代行として掛長業務を既に体験しており新任とはいえ掛長業務に不慣れではなかった。
(ロ) 被告は太郎を含む新任掛長を対象に研修を行っている。
まず、平成三年一月五日には管理職掌としての動機付けと立場、役割についての認識を深めるために講話や水島製鉄所の現状や課題、労務管理に関する講義を行った。
更に新任掛長に一定の課題を与えてレポートを提出させ、レポートに基づいて同年三月一四日にグループ討議を行った。
<2> 太郎の掛長昇進前後の業務量の比較
形鋼グループの平成二年四月から同年一二月末日までの業務量と平成三年一月から同年六月二〇日までの業務量を比較してみると、両者の間に大きな差はなかった。
<3> 形鋼グループの課題
(イ) SHH(スーパーハイスレンドH形鋼)の仕掛問題
そもそもSHHの仕掛削減は技術的問題に関わることであるので、形鋼グループで対応できることではなく、仕掛品の削減等の課題は形鋼課(実際の生産を担当する工場部門であり、条鋼工程課形鋼グループとは別)の担当となり、SHHの仕掛問題については太郎は、掛長の立場で情報として問題点を把握する必要はあったが、条鋼工程課の守備範囲である納期調整の実務は進捗グループの担当者(井上準之助他)が行っており、太郎に直接負荷がかかるというものではなかった。
(ロ) 大和電気製鋼株式会社水島電気炉工場の初期トラブル
太郎は直接の担当者としてはコンピュターシステムの対応をしていればよかったのであり、初期トラブルも平成三年三、四月頃には解消していたもので、この問題も太郎に大きな負担となっていたものではない。
操業開始後、正常に稼働するようになるまでの間電気炉のトラブルに対する対応は石光が行っており、太郎は上司として確認を行ったが、電気炉工場の関係で多くの時間をとられることはなかった。
(ハ) 大形工場の設備トラブル
これも、条鋼工程課形鋼グルーブの担当するシステムがうまく機能していなかったというのではなく、むしろ工場の形鋼課の担当する技術分野に起因する問題であり、条鋼工程課の掛長である太郎が一人で責任を負担しなければならない問題ではなかった。
<4> 原告ら主張の二四項目の課題について
これらは、条鋼工程課形鋼グループ全体の課題を列挙したものであって、内容的に各項目の全てが解決の難しい課題といった性質のものではない。
太郎の業務スケジュールを検討してみると、太郎自身が直接に実務を担当する事項も含まれてはいるが、掛長の立場で形鋼グループ全体の業務を整理列挙しているものであることが明らかである。
<5> 太郎死亡後の業務の処理状況
太郎の業務量が過大でなかったことは次のことからも明らかである。
(イ) 太郎死亡後、平成三年一〇月後任の滝澤建五(以下「滝澤」という。)が掛長として就任するまでの間、太郎の担当していた業務のうち、重点課題関係は石光、Y形鋼倍尺システムの仕上げは生産管理技術室、仕掛問題の製造ラインに対する具体的課題は稲木がそれぞれ対応し、残余の業務は橋本課長が担当したが、この臨時的対応で格別の支障なく業務は進行し、橋本課長は自分の本来の仕事と同時に処理した。
(ロ) 後任の滝澤掛長は形鋼の仕事は未経験であったため、慣れるまでの半年間は平均二二時頃まで働いたがその後は一九時から二〇時に退社した。
休日についても慣れるまでは一ヶ月平均二、三回程度は出勤したが、その後は一ヶ月平均約一回程度の出勤であった。
2 太郎の自殺と業務との因果関係
(原告らの主張)
太郎は、以前から過労状態が続いていたところ、平成三年一月掛長に昇進後の長時間労働と過重な責任によって同年三月から四月頃うつ病に罹患した。しかし過重な労働条件は変わらず、また被告の経営する川鉄水島病院(以下「川鉄病院」という。)を受診するも適切な治療や労働条件の改善が実行されなかったために、うつ病は更に悪化して同年六月には疲弊うつ病といえる状態に陥り、うつ病に支配された状態に至ったものである。
太郎の過重労働と自殺との間に相当因果関係が存在することは明らかである。
(被告の主張)
太郎の業務と自殺とは全く因果関係がない。
太郎の自殺は、本人の性格並びにアルコールによって引き起こされたものである。即ち、太郎は責任感が強く、几帳面で、完全欲が強い特徴的性格から期待通りに部下が動かないという問題等について他の掛長なら時間をかけるなど適当に処理するにも拘わらず、自分が手を打てば事態は改善されるはずであると自己を鞭打ち続けて心身ともに疲労困憊に陥った。更にこの焦燥感を紛らわすために、毎日多量の飲酒をし、自ら睡眠時間を減らして正常な睡眠をとることができず、太郎の収入の減少、原告花子の太郎に対する金銭面での抑制等の経済問題、長男の受験失敗等も原因して、平成三年三月頃、うつ病になり、その症状が同年六月中旬急速に悪化していき、同年六月二〇日自殺したものである。
3 被告の債務不履行の有無
(原告らの主張)
(一) 予見可能性
(1) 被告における常態的な長時間残業と休日出勤
被告においては長時間残業と休日出勤が常態化しており、被告もこれを把握していたはずである。
太郎は、平成三年一月一日から六月二〇日までの間、少なく見積もっても二三五三時間という長時間労働に従事したことになり、これはその間の平日の所定労働時間八九〇時間の約二・六倍もの殺人的な長時間労働となる。
また太郎の職務が責任の面でも過重なものであったことも被告は把握していたはずである。
(2) 被告の予見可能性
<1> 使用者の、その従業者の健康が損なわれることについての予見可能性は、本件のように自殺を招来するかもしれないというような、被害発生の具体的な形態についてまでも予見すること、あるいは予見しうることを要求するものではない。
そうした過重な労働があれば、労働者の健康に支障を及ぼし、死を招来する危険があるという一般的認識、あるいは認識の可能性があれば予見可能性は認められる。
<2> 働き過ぎによるストレスが心の病気や心の病気による自殺の原因となることが知られてきたが、このような社会状況に対応する形で、被告も昭和六三年にメンタルヘルスに関するパンフレットを配布していた。
<3> 被告においては過去何度も在職者の自殺事件が起こっていた。訴訟の経過を通じて明らかになったものだけで六人いる。
太郎は以前から被告の経営する川鉄病院にかかっており、平成三年四月頃にも、太郎と同じ形鋼グループの中ノ瀬、石光、津田達雄(以下「津田」という。)が相次いで健康を害している。その原因は当時形鋼グループが置かれていた慢性的過労状態にあると考えられる。
<4> 以上から、被告に予見可能性があったことは明らかである。
(二) 被告の安全配慮義務違反
(1) 安全配慮義務
一般私法上の雇用契約においては、使用者は労働者が提供する労務に関し指揮監督の権能を有しており、右権能に基づき労働者を所定の職場に配置し所定労働を課すものであるから、使用者としては指揮監督に付随する信義則上の義務として、労働者の安全を配慮すべき義務があり、本件では被告には雇い主として、その社員である太郎に対し、同人の労働時間及び労働状況を把握し、同人が過重な長時間労働と責任によりその健康を害されないよう配慮すべき義務がある。
(2) 労働時間の管理
使用者の労働時間管理は、使用者が労働時間の実態を把握することが第一歩であるところ、被告には職員の残業時間を把握するための体制がなく、各職員は私的なメモに各人の残業時間数を書いて自己申告し、計画グループの場合本来の残業時間の六、七割も手当を貰っていなかったし、橋本課長は午後七時から九時の間に帰るため、以後の太郎の残業については把握する上司もなく放置されており、休日労働も同様であって、被告には著しい安全配慮義務違反がある。
(3) 健康管理体制
被告の社内で健康診断が実施されても、その結果は主任から職員に回され後は本人の処理に任されており、被告による事後措置体制はなく、健康診断は形だけであり、産業医によるチェックがなされる余地はなかった。
(4) 産業医体制
各事業場に産業医が置かれ、各職員の業務を把握した上で健康管理が行われなければならないことは、労働安全衛生法第一三条、同規則第一四条に定められているところ、被告の産業医は被告自体が経営する川鉄病院院長中西洋二他二名であり、いずれも被告の従業員であった。
本件の場合には、被告から産業医に職員の勤務実態が知らされていなかったし、川鉄病院からも受診した職員の健康状態に関する情報が被告に伝えられておらず、これでは労働安全衛生規則第一四条二項が定める勧告、指導、助言の各権能の行使を産業医に期待することは不可能であり、産業医とは形ばかりで全く機能していなかった。
(5) 衛生委員会体制
労働安全衛生法第一八条によれば、被告規模の事業所では衛生委員会を設置し、「労働者の健康障害を防止するための基本となる対策」「労働者の健康の保持増進を図るための基本となる対策」「労働災害の原因及び再発防止対策で衛生に関するもの」等について調査審議させなければならないところ、被告ではこれまで自殺が多発し、既に昭和四七年当時から工程部の業務と自殺との関係を問題にすべき状況が存在しており、被告がその原因を調査し対策を講じようすればできたにも拘わらず、太郎の自殺時迄何らの対策がとられなかった。
(6) 形鋼グループ部員の健康障害の放置
被告では過重労働が放任されていたことから、部員の健康障害に対し上司が全く無関心となり、形鋼グループが慢性的残業状態にあろうと、健康を害する者が出ようと調査もされず、負担軽減等の措置も取られなかった。
(7) 被告のメンタルヘルス対策
職場のメンタルヘルスに関し、被告は昭和六三年にパンフレットを配布したのみで、会社として行うべき、職場に詳しい精神科医等の専門医の確保も、健康管理医、健康管理者等の体制の整備充実も、各職場の管理・監督者等にメンタルヘルスについて正しい理解と認識を持たせることも実行されていなかった。
(被告の主張)
(一) 予見可能性
(1) 予見可能性の程度
安全配慮義務は、事故発生の危険性に対する安全配慮の必要性がある場合に要求され、事故の発生が客観的に予測し得ない場合、すなわち結果発生の予見性のない事故についてまで安全配慮義務を問われることはない。そして、結果発生の予見可能性は、職場の環境、作業体制、人的物的構成あるいはその他の従業員の資質、能力、諸設備等を総合的に考慮して、客観的な予測性があったか否かによって具体的に判断されなければならない。
(2) 被告の予見可能性がないことについて
<1> メンタルヘルス対策について
被告がメンタルヘルス対策を取ろうとしていたことをもって、被告に結果発生の予見可能性があったという原告の主張は、太郎の自殺を含む健康被害について、客観的、具体的なものとはいえない。
<2> 被告従業員の健康被害について
被告の従業員のそれぞれ原因の異なる病気を理由に過重労働を推認し、予見可能性を論ずることも妥当ではない。
<3> 被告における自殺者と被告の対応について
被告の従業員の自殺率が統計的数字と比較して高いということはない。
また、いずれの自殺者の場合も自殺の原因は不明であり、少なくとも被告の業務態勢や健康管理体制が自殺の原因となったことが認められるケースは存在しない。
したがって、太郎より前に被告の従業員から自殺者が出たという事実は、太郎の自殺について被告の予見可能性をいう場合に考慮すべき事実ではない。
<4> 被告会社における太郎の自殺の予告兆候
自殺者は予告兆候を現すが、太郎は被告会社においては自殺の兆候を現さないうちに自殺したもので、被告は太郎の自殺について予見することは全くできなかった。
(二) 被告の安全配慮義務について
(1) 被告には太郎の死亡に関して安全配慮義務違反は存しない。
(2) 太郎の労働時間に対する被告の管理義務
太郎は昇進して管理職の掛長になったので、一般従業員とは異なり、原則として労働時間による拘束はなく、残業及び休日出勤という概念は該当せず、従って被告は掛長である太郎の労働時間を管理する立場になく、労働時間の管理を怠ったとする安全配慮義務違反の主張は理由がない。
(3) 被告の従業員に対する健康管理体制
<1> 産業医
被告は専属の産業医を選任し、産業医は従業員の健康管理を行っている。
<2> 健康診断
(イ) 労働安全衛生法第六六条は、事業者に対し、医師による労働者の健康診断の実施や健康診断後の措置を義務づけている。
(ロ) 被告は、年一回社員の誕生月に健康管理センターにおいて産業医の下で定期健康診断を行っている。この健康診断は健診項目が法定項目を上回っていることと、全員に対する診察健康指導が特徴となっている。
(ハ) 健康診断後のフォロー体制
健康診断の結果、所見が認められた人に対しては、精密検査が実施され、治療区分に分けた判定がなされ、その程度によって就業制限、就業禁止の就労措置、療養指導等が行われ、必要に応じて健康指導、健康相談、療養指導等が行われる。
社員の健康診断結果を、個別の職場健康管理に役立ててもらう目的で、所見が認められた対象者のみの名簿を各所属の管理者へ送付している。
太郎の場合、平成二年一一月に健康診断が行われたが、結果に特別な異常が認められなかった。
<3> その他の健康管理体制
労働安全衛生法第六九条は事業者が行うべき労働者に対する健康教育等の措置について定め、同法第七〇条は体育活動についての便宜供与、各種健康教室の実施等についても定めている。
被告は、昭和五八年から「健康づくり運動」を展開し、他にメンタルヘルス対策を実施したり、健康相談窓口を設置し、また健康教育に関しては各種の層別教育や産業医巡視の場を利用して実施している。
<4> 健康管理センター
被告は川鉄病院設立と同じ時期に健康管理センターを併設し、従業員の健康管理の一層の充実を図った。
この健康管理センターは、五六才から六〇才への定年延長を契機に中高年健診の充実を目指し、併せて社員の定期健診を効率的に一括実施するために設置されたものであり、産業医は当センター配置された。
<5> 川鉄病院と産業医
(イ) 川鉄病院は、経営主体が被告であるというだけで利用者を被告の社員や家族に限定せず、地域に広く開かれた病院であり、被告の社内診療施設ではない。
産業医も川鉄病院ではなく、健康管理センターに配置されている。
(ロ) 川鉄病院で受診した被告の社員の診断内容は当然には産業医には伝わらない。
(ハ) 被告では社員は健康管理センターを自由に利用できることになっていて、太郎は右センターの産業医に健康相談しようと思えばできた。
<6> 橋本課長の太郎に対する配慮
(イ) 橋本課長は太郎が掛長に昇進した際とその後、折にふれて掛長の心得について一人だけで背負い込んでやろうとするな等と説いていた。
(ロ) 橋本課長は、太郎に無理をさせたり過大な負担を負わせないために、業務上種々配慮している。
(ハ) 橋本課長は部下の健康にも十分注意し配慮していた。
平成三年四月に太郎が川鉄病院で受診したのを知ったとき、橋本課長は太郎に同人の担当業務を引き受けることを申し出たが、太郎はこの申し出を断った。
4 損害の算定に当たって、太郎ないし原告ら側に存する事情を斟酌すべきかどうか
(原告らの主張)
(一) 太郎は肉体的にも精神的にも過重な労働が原因でうつ病に罹患し、そのうつ病の結果自殺に至ったのであるから、自殺に至ったこと自体の責任を問題にすることはできない。
(二) 太郎はうつ病罹患についても責任がない。太郎の執着気質あるいは性格がうつ病に罹患しやすい条件であり、このような気質や性格が遺伝的要素によりもしくは後天的に形成されたとしても、太郎がそのような気質や性格を有するに至ったことに責任はない。
このような気質や性格は、ごく普通に見られるもので正常人の持つ性格類型であって、これを損害賠償額を定めるに当たり斟酌することは相当でない。
(三) 太郎がうつ病に罹患するについても、自殺に至るについても、アルコールの影響があったことを示す証拠は何もない。
(四) 太郎の過重労働について管理していたのは被告であり、太郎の労働実態を知らず、太郎の労働を管理することもできない原告花子には何ら責任はない。
(五) 太郎は既にうつ病に罹患し、抑うつ状態にあり、病院を受診しても効果がなく、受診を中断したもので、これを太郎の責任ということはできない。
(被告の主張)
(一) 仮に、太郎の自殺の原因が過重労働にあるとしても、次のように太郎の自殺には過重労働以外のその他のうつ病の原因があり、また太郎自身及び原告らの落ち度に起因するところが大きく、損害額の算定に当たっては、損害額の公平な分担の法理から、過重労働以外のうつ病の原因及び原告らの落ち度(九割以上)を斟酌し、過失相殺または割合減額すべきである。
(1) 太郎のうつ病の原因の大半は太郎の責任感が強く、几帳面で完全欲が強い特徴的性格に家庭問題等の要因が加わり、結婚当初からの長期の飲酒によるアルコール依存状態から、毎日多量に飲酒した結果、睡眠不足を来たしたものである。
(2) 太郎の異常言動に原告花子は気付いていたにもかかわらず、被告に対し、報告、相談をするあるいは専門医の診察を受けさせる等適切な対応を怠った。
(3) 太郎は川鉄病院で服薬を指示され、投薬後微熱及び寝汗の症状が改善されていないにもかかわらず、医師にその旨を申し出ず、自らの判断で受診を中断した。
(4) 太郎は管理職として自らについての適切な就業管理を怠った。
(5) 上司である橋本課長の太郎の担当業務を引き受ける旨の申出を断った。
(6) 原告花子は、太郎の健康を考え、アルコールを止めさせて睡眠を十分とらせるべきであったにもかかわらず、アルコールを止めさせなかった。
5 原告ら主張の損害
(一) 慰謝料 金二七〇〇万円
(二) 逸失利益 金八五六二万二〇一六円
(三) 医療費 金二三一四円
(四) 葬儀費用 金一四六万七二三五円
(五) 弁護士費用 金一一四〇万円
第三争点に対する判断
一 前記前提事実、争いのない事実、証拠(<証拠・人証略>)及び弁論の全趣旨によれば次の事実を認めることができる。
1 太郎の身上、経歴など
太郎は、昭和二四年一一月二六日出生し、昭和四三年三月岡山県立天城高校普通科を卒業し、昭和四五年六月被告に入社し、昭和四九年四月主務職掌候補の認定を受け、同年七月から工程部条鋼工程課に配属された。昭和六三年四月から同部生産管理技術室に移ったが、平成二年四月から再び条鋼工程課に戻った。平成三年一月から工程部条鋼工程課掛長を担当していた。
その間、太郎は昭和四七年五月四日原告花子と婚姻し、原告花子との間に長男原告一郎、二男原告二郎の二児をもうけた。
2 被告における社員の労働時間、管理体制等
(一) 社員の労働時間等
被告の所定勤務時間は午前八時三〇分から午後五時八分、昼休みが午後〇時から〇時四五分であった。
被告は、平成三年一月太郎の掛長昇進後、太郎を労働基準法第四一条第二号の「管理の地位にある者」として取り扱い、その結果掛長に対しては、一般従業員と異なり、原則として労働時間による拘束はなく、一般従業員に適用される所定労働時間を超える労働(いわゆる残業や休日出勤)は、掛長自らの判断に委され、従って残業手当及び休日出勤手当も支払われない反面、遅刻、早退などによる給与カットもなされていなかった。
(二) 社員の労働時間の管理体制等
社員の労働時間の管理については、被告は、各社員が自らメモか表により、残業や休日出勤の時間を月末に報告するという、自己申告制を採っていた。
しかし、太郎は掛長であったため申告制は採られていなかった。
(三) 社員の勤務状況等
被告においては、平成二、三年当時、一般の社員は一月一七、八時間から二四、五時間までの残業手当を請求するのが通例であったところ、実際の残業や休日出勤はこれをはるかに超えているのが常態化していたが(いわゆるサービス残業)、このことが被告、社員同士、労働組合等で具体的な問題になったことはなかった。
工程部においては、当時被告の時間外労働の目安ないし管理目標は月一五時間とされていたが、そもそも時間外労働を命ずることは殆どなく、従業員の自主的な労働とされ、時間外労働の申告もメモ等による自発的な申告に任され、これらサービス残業について従業員に不平、不満があったことは想像に難くないが、被告の時間外労働に対するそれまでの態度からして、実際の時間外労働を申告するのは不可能であり、また認められることもあり得なかった。
(四) 社員に対する健康管理体制
(1) 産業医
被告は専属の産業医を選任し、産業医は従業員の健康管理を行っている。
(2) 健康診断
被告は、年一回社員の誕生月に健康管理センターにおいて産業医の下で定期健康診断を行っている。この健康診断は健診項目が法定項目を上回っていることと、全員に対する診察健康指導が特徴となっている。健康診断の結果、所見が認められた人に対しては、精密検査が実施され、治療区分に分けた判定がなされ、その程度によって就業制限、就業禁止の就労措置、療養指導等が行われ、必要に応じて健康指導、健康相談、療養指導等が行われる。社員の健康診断結果を、個別の職場健康管理に役立ててもらう目的で、所見が認められた対象者のみの名簿を各所属の管理者へ送付している。
太郎の場合、平成二年一一月に健康診断が行われたが、結果に特別な異常が認められなかった。
(3) その他の健康管理体制
被告は、昭和五八年から「健康づくり運動」を展開し、他にメンタルヘルス対策を実施したり、健康相談窓口を設置し、また健康教育に関しては各種の層別教育や産業医巡視の場を利用して実施している。
(4) 健康管理センター
被告は川鉄病院設立と同じ時期に健康管理センターを併設し、従業員の健康管理の一層の充実を図った。
この健康管理センターは、五六才から六〇才への定年延長を契機に中高年健診の充実を目指し、併せて社員の定期健診を効率的に一括実施するために設置されたものであり、産業医は当センターに配置された。
(5) 川鉄病院と産業医
川鉄病院は、経営主体が被告であるというだけで利用者を被告の社員や家族に限定せず、地域に広く開かれた病院であり、被告の社内診療施設ではない。産業医も川鉄病院ではなく、健康管理センターに配置されている。川鉄病院で受診した被告の社員の診断内容は当然には産業医には伝わらない。
被告では社員は健康管理センターを自由に利用できることになっていて、太郎は右センターの産業医に健康相談しようと思えばできた。
3 条鋼工程課を取り巻く環境
(一) 昭和六三年後半からの景気の急激な回復により形鋼工場は大型工場、中形工場ともにフル稼働となった。昭和六三年当時二直交替勤務であったものが、昭和六三年後半から三直三交替勤務になり、太郎が掛長に昇進した平成三年頃から四直三交替勤務の協議に入り、同年八月から実施となったが、当時は需要が旺盛で、被告は生産能力向上のため努力していた。
(二) 平成元年に生産を開始したSHHは、製鉄業界久々のヒット商品となり、会社内外の注目度は極めて高かった。製造は他の製品に比べて難しく、圧延後の仕掛品が大量に(五〇パーセント強)発生し、生産量を増やすことができない状態にあり、そのため、従来大形工場が製造していたSHHの一部を中形工場に移動するなどの措置を講じていたが、抜本的解決とはなっていなかった。
(三) 平成二年頃から東京湾横断橋用長尺鋼矢板問題が出ており、生産に力を入れたがそれまで被告が製造した経験のない長尺(長い)製品であったため全製品が仕掛品という状態であった。
また、同年頃からY形鋼の生産に入り、平成三年八、九月頃から生産開始となった。
(四) 平成二年一二月から大和電気製鋼水島電気炉工場が稼働を開始していたが、初期トラブルが発生していた。そのため、増産の要請に応じることができず、調整に苦慮していた。
このような環境の下で、工程部門は顧客と生産現場の間に立ち、調整に追われる状況にあった。前記のように形鋼品種は季節変動が激しい傾向があったが、当時は季節を問わずとにかく生産規模を高める必要があり、常に注文と生産の調整に追われる状態にあった。
4 太郎の職務内容
(一) 条鋼工程課の業務等
(1) 工程部は、被告水島製鉄所における生産工程全般の管理をその業務としている。ここで生産管理というのは製品の注文を受けてから出荷するまでの工程の管理を意味する。
工程部はさらに生産管理技術室、鋼板工程課、条鋼工程課に分かれている。生産管理技術室は管理技術の開発改善を担当しており、鋼板工程課は鋼板の生産工程の管理を、条鋼工程課は条鋼の生産工程の管理をしている。生産管理技術室と鋼板工程課、条鋼工程課の間には上下関係はなくいずれも並列的な関係である。
(2) 条鋼工程課は約四〇名の従業員で構成されており、更に鋼片・綿棒グループと形鋼グループに分かれている。綱(ママ)片・綿棒グループは綱(ママ)片工場、綿棒工場、溶接棒工場の生産の管理を担当し、形綱(ママ)グループは大形工場、中形工場(大和電機(ママ)製鋼)、電気炉(大和電機(ママ)製鋼)の生産管理を担当している。形綱(ママ)グループは二〇名の従業員で構成されており、計画グループ、命令グループ、進捗グループに分かれていた。(条鋼工程課の業務内容は別紙<略、以下同じ>1の、平成三年六月当時の同構成員は別紙2のとおり)
(二) 太郎の業務
(1) 掛長昇進以前
太郎は、平成二年四月、形鋼グループに転任してきた当時は、その中の計画グループに属し、電炉システムと中形工場を担当し、グループ掛員のトップ、掛長補佐的な立場にあった。
計画グループ部員は四人であり、太郎の他は電炉計画立案調整が石光、大形工場担当が青木、中形工場担当が梅林であったが、当時は稲木が形鋼グループの掛長をしており、稲木には片腕となる太郎がいたこと、大形工場には手慣れた青木もいたこと、掛員も太郎を含め四人いたこと、などから太郎に過度な負担がかかるという状況にはなかった。
(2) 掛長昇進後
平成三年一月、掛長昇進後は主任部員として形鋼グループを担当し、計画グループ、命令グループ、進捗グループ全体を総括する立場となった。
太郎の掛長昇進に伴い、大形工場を担当していた青木が他の部署に転出した。その後任として、大形工場の経験のない中ノ瀬が、一月一杯の青木との引き継ぎを受けただけで、大形工場の計画立案、工程管理に当たることとなったが、仕事の覚えが悪く、太郎は仕事を覚えさせるのに時間をとられた。また、太郎に代わって形鋼計画総括となった石光は太郎に比べて熟練度に劣り、殻(ママ)となる存在としては落ちた。
これら事情から、太郎は掛長昇進直後から大きな戦力ダウンの状況下で仕事をすることを余儀なくされた。
(3) 太郎及び工程部の当面した課題
<1> SHHは、溶接H鋼(ママ)より値段が安くてリードタイム(注文を受けてから出荷するまでの時間)も遜色ないということを売り物にしており、従来のH形鋼以上に厳格な納期管理が求められていたことから、業務負荷は増大していた。平成三年四月からはSHHのフルサイズの生産に入るということで環境面はいよいよ大変な局面にあった。
平成三年六月一〇日開催のテレビ会議では、本社営業課長江黒から納期達成率が悪いのでどうにかしてくれと求められ、工程部として納期を守るためにあらゆる方策を練る必要があった。
<2> 平成二年からの課題であった東京湾横断橋用長尺鋼矢板の生産が平成三年から開始されたが、受注が増えると仕掛品が増えて大形工場の精製能力面で悪影響が出て、生産に限界がある状況だった。
<3> また、大形工場では、SHHと東京湾横断橋用長尺鋼矢板の仕掛問題が加わって計量ロールHを含めた全体としての仕掛問題をどう見直すかの問題も起こっていた。
<4> 鋼矢板の一種で新製品のY形鋼は平成二年頃から生産協議が始まり、平成三年八、九月頃から生産開始となったが、太郎は掛長昇進後、早期実現に向けて生産管理システムの設計に従事していた。
<5> 太郎が掛長に昇進した当時はバブル景気で鉄鋼需要が旺盛であり、これに応えるため工場の稼働能力を高める必要が生じ、掛長昇進頃より従来の三直三交替勤務に代わる四直三交替勤務の協議が開始され、平成三年八月より実施となった。太郎は四直化にともない生産量が増えることから、製品をいかにスムーズに顧客に提供するかを考えていかねばならない立場にあった。
<6> 太郎には右以外に、碧南火力発電所建設にあたって鋼矢板の製造、出荷を検討し、シンキンググループ(考える小集団活動)やサジェスチョンシステム(改善提示活動)などで部下の育成を図り、毎年一月末と七月末に行われる利益計算を処理するなど多忙な職責があった。
(三) 橋本課長に対する相談
太郎は、これらの課題の達成について悩み、日常業務以外に上司の橋本課長に次の通り相談していた。
(1) シンキンググループ、サジェスチョンシステム活動について、平成三年六月までは目標ゼロとしていたのを同年七月以降一二月までに達成することにしたが、その達成が難しいことについて
(2) 部下の教育、特に中ノ瀬に対する指導について
(3) 一般職掌の仕事ぶりについて、問題意識や改善要求を持っている人が少なく、お金だけという人が多いことについて
5 太郎の業務に対する態度等
(一) 太郎は仕事に厳格で、部下の仕事に対して厳格さを要求し、特にトラブル等の記録をその都度残すように部下に言い、太郎自身もそれ以上に自分の仕事に対して厳格さを要求し、几帳面、完全志向、責任感が強く、常に仕事に前向きに向かうという姿勢で臨んでいた。
太郎は、平成三年二月の新任掛長研修のためのレポートの最後に次のような感想を述べていた。
「掛長昇進後、約二ヶ月が経過した。ローテーション等目まぐるしく過ぎ去っていった。現状抱える問題・課題について思いを巡らしながらも足もとの業務に忙殺されてしまった感じである(これ程負荷の大きいものと思っていなかった)。足もとの業務に忙殺されないためにも業務の効率化は必須条件であり、生産体質強化活動を着実に推進するためのベースの一つとして、着実に推進し、成果を上げていく決意である。」
更にまた際だった特徴としては、会議等の際、その場をうまくまとめるところがあり、またワープロが得意で、スケジュール表等の社内文書、レポート、レジメ等も丁寧且つ見た目も考えて作成に時間をかけ、また社内で「メモ魔」と言われるほどよくメモを取っていた。
(二) 太郎は、同期の高卒の主務職掌の中で昇進の一番早い方であり、掛長に昇進したことを喜んでおり、自己の立場について、地方採用であるので、本社採用の高卒者との間に差別的なことがあり、それらの人に負けないよう、また地方採用の高卒者としては(掛長となる)最初の例だから、後々の評価につながるので、後々のことも考えないといけないと、原告花子に対し話したことがあった。
(三) 太郎は、昭和六〇年には「リードタイム短縮の取り組みについて」と題する業務論文、昭和六二年には「中形物流合理化」と題する業務論文を書き、それらにおいて会社の方針に積極的に応えていこうという姿勢を示していた。
6 計画グループ社員の勤務状況等
計画グループの社員では、午後一〇時、一一時までの残業、休日出勤は当然といった状況であった。
通常、中ノ瀬は午後一〇時、一一時に、石光は午後八時から一〇時頃までに退社していたが、太郎の退社は大体同人らよりも遅く、同人らが休日出勤したときには太郎も必ずといっていいほど出勤していた。
太郎の前任掛長稲木は、掛長在職の平成二年四月から同年一二月まで、午前七時か七時三〇分に出勤し、午後一〇時前後に退社し、休日も午前九時、一〇時に出勤し、午後四時か五時に退社していた。
太郎の後任掛長滝澤は、形鋼の仕事は始めてであったが、掛長職に慣れるまでの半年間位は平均午後一〇時頃まで残り、休日も一ヶ月平均二、三回出勤していたが、仕事に慣れてからは午後七時か八時に退社し、休日も一ヶ月平均一回程度出勤した。
7 太郎の勤務状況等
(一) 太郎は、平成二年四月形鋼グループに転任となって後、午前八時三〇分までには出社し、帰宅時間は午後一〇時から一二時の間で、月二、三回は午前二時頃まで仕事をし、土曜、日曜にもほとんど出勤していたが、掛長昇進後は、午前八時前後に出社し、午後一一時から一二時に退社した。週二、三回は午前〇時を過ぎて帰宅するようになり、時には一週間続けて午前〇時を過ぎて帰宅することもあった。太郎が掛長昇進後会社に行かなかった日は、わずかに一月一日と六月一五日の二日だけであり、土曜、日曜も午前九時、一〇時には出勤し、午後九時、一〇時に帰宅していた。
(二) 太郎は、平成三年一月から六月二〇日までの間に、次のとおり九回の懇親会に出席し、この日は遅くとも午後六時には退社していた。
一月一一日 稲木、中ノ瀬歓送迎会
二月八日 青木送別会
二月末頃 下山の水島訪問時の懇親会
三月一四日 新任掛長研修後の懇親会
三月末頃 計画グループ掛員との懇親会
五月一七日 新入社員歓送会
六月四日 条鋼技術部会後の懇親会
六月一二日 大阪支社・渡辺課長水島訪問時の懇親会
六月一四日 大和電気製鋼との懇親会
また、同じ期間の休日には次のとおり五回私的な用事を行っている。
三月二日(土) 津田のお見舞い
三月二四日(土) 二男の演劇公演に出席
四月二〇日(土) 川鉄病院に通院
五月一一日(土) 川鉄病院に通院
五月二五日(土) 石光結婚式に出席
この他に、四月一七日(水)には、勤務時間の途中に川鉄病院を受診している。
8 被告社員の健康
太郎の属する形鋼グループでは、社員に次のとおりの病気があった。
(一) 中ノ瀬は、平成三年三月か四月頃、微熱により川鉄病院で診断を受け、原因がはっきりしないため、佐藤内科、水島中央病院で診断を受け、平成三年九月一一日から二四日まで検査入院した結果、微熱の原因は扁桃腺の炎症によるものであることが判明した。
また、中ノ瀬は平成七年二月にも同じ扁桃腺が腫れて休んだ。
(二) 石光は、平成三年三月頃、胃を悪くし、二日間会社を休んだが、川鉄病院で急性胃炎と診断され、薬を飲んでその後回復した。
(三) 形鋼グループの進捗グループ員である津田は、平成三年二月頃、倉敷中央病院へ二週間入院したが、病名は一過性脳虚血発作であった。
9 被告社員の自殺
被告においては、昭和四七年頃より、次のとおり社員の中で自殺者が発生している。
(一) 昭和四七年四月に自殺した工程課長代理の河藤健三の場合、職場周囲のものに精神の異常を感じさせる奇矯な言動があった。
被告は、同人を精神科の専門医に受診させ、専門医の意見に基づいて同人を通院させつつ、社内的には職務に対する適性の再評価を行い配置について配慮した。
(二) 平成八年八月二一日に自殺した電磁鋼板課掛長であった早瀬直樹の場合、平成八年八月三日頃、上司に対して「仕事に自信がない」旨申し述べた。
被告は翌日から九日間同人に休暇を与え、同人は八月一七日に心療内科を受診し治療を受けた。
(三) 昭和四九年に自殺した渡辺敏信、昭和五六年に自殺した松岡宏仁、昭和五七年に自殺した下野隆敏、平成八年八月三一日に自殺した出口正人の各場合には、被告の方では異常を認知し得なかった。
10 太郎の被告(会社)における状況
(一) 太郎は、昼食時食堂のうどんコーナーによく出入りし、昼休みには毎日のように寺本、稲木と将棋を指し、自殺当日の昼休みにも稲木と将棋を指した。
(二) 中ノ瀬は、太郎の自殺当日太郎にロールスケジュールの判を貰う時、いつもは内容を聞かれるのにその日は聞かれなかったことが変だと思ったが、それ以外に太郎の様子について気付いたことはなかった。
(三) 石光は、太郎について、平成三年三、四月頃から、顔色が悪く、煙草の量も増え、物忘れがひどくなり、疲れていると感じていた。
石光は、平成三年春頃、太郎から寝汗をかくようになったと聞いた。
(四) 稲木は、掛長昇進後の太郎について、顔色が変わったとは感じていなかった。
(五) 橋本課長は、太郎の会社での態度に特別変わった点や異常な点については気付かなかった。
平成三年春頃、太郎は橋本に対し「微熱があるので病院に行く」と言って川鉄病院に行き、川鉄病院から帰ってきて橋本に様子を聞かれたが何ともなかった旨答えた。更に橋本が、太郎が疲れているように感じたので、太郎担当の仕事を引き受けようかと言ったが、太郎はこの申出を断った。
11 太郎の家庭における生活状況など
(一) 家庭生活など
(1) 太郎の家族は、妻と、長男一郎(昭和四七年一二月二五日生)、二男二郎(昭和四九年一一月二日生)の四人家族であった。太郎は家庭においては家族を大切にする子煩悩な父親であった。太郎は時折子供のことについて、「子供は親を選んで生まれてくることができないから、親が精一杯のことをしてやらなければならない。」と原告花子に話していた。外出するときには、家族で出かけることが多く、家では家族で会社での出来事や、学校での出来事を話し、太郎自ら簡単な手料理を作って家族に食べさせたり、平成二年夏頃まではギターを弾いたり、音楽を聞いたりして過ごしていた。掛長に昇進してからはそのような趣味的なこともしなくなり、帰宅が遅いため日曜日のNHKの大河ドラマもビデオに録って見るようになった。
太郎は、通常午前七時頃に起床していたが、掛長昇進後は帰宅が遅く、帰宅してから入浴に一〇分から一五分、夕食と晩酌に一時間半位かけて、それから寝るので睡眠時間はかなり短くなっていた。
また夫婦の性交渉も、太郎の帰宅時間が遅く太郎が先に寝るので、少なくなっていた。
(2) 会社での話
太郎は、会社での話を次のように原告花子に話していた。
<1> 平成三年二月に掛内の人事異動があり、経験のある社員が他の部署に移されたことを無茶をすると言っていた。その後新たに配属された高卒主務が仕事ができないので、その人に仕事を教え込むことに時間をとられてしまうと言っていた。
<2> 現地採用の高卒主務であった太郎の掛長昇進について、本社採用の高卒主務の間に大反対があった。
<3> 太郎の掛長昇進について、橋本課長から、工程部長にお礼の品物を届けるように言われ、憤慨していた。
<4> 橋本課長が、仕事を進めていく上で、大学卒は人として扱い、女性や一般職(地方・現地採用)は家畜として、仕事を進めていけばよいと発言したといって怒っていた。
<5> 掛内の全体の仕事の計画を担当している、大卒の人が決められた期限までに書類を作成できないことがあると言って悩んでいた。
(3) 収入面等
太郎の平成二年度の年収は七四六万七九七二円であった。太郎が掛長に昇進する前の平成二年一二月の給与は約六万三〇〇〇円の時間外手当を含め約四一万三〇〇〇円であったが、掛長昇進後の一月の給与は基本給は大幅にアップしたものの時間外手当がなくなったことで、約一万四〇〇〇円の減収となっていた。
原告花子は、太郎の会社で飲み会があるときは、太郎に五万円を渡していたが、その額等について特に問題となったことはなかった。
(4) 長男の受験と浪人
太郎の長男一郎は、平成三年春大学受験し、私立大学には合格したが国立大学に不合格となり、再度国立大学を目指して浪人し、四月から代々木予備校に通っていた。
(二) アルコールの摂取
太郎は、原告花子と結婚後、大体毎晩夕食時に晩酌をしていて、その酒量は、昭和六三年二月頃は一日ビール二本位、掛長昇進前はウィスキーを七二〇ミリリットル入りのボトルなら一日平均三分の一程度、一九二〇ミリリットル入りのビックボトルなら一週間から一〇日間で飲んでいたが、掛長昇進後はちょっと目立つ程度に酒量が増えた。
したがって太郎は、掛長昇進後は、少なくとも一日に二〇〇ミリリットルないし二七〇ミリリットルのウィスキーを殆ど毎晩飲んでいた。
太郎の尿・血液検査の結果からは、アルコール依存症とする所見は見られず、その他にもそれを窺わせるものは特にない。
(三) 健康状態
(1) 太郎は身長一六七センチメートル、体重七〇キログラム前後で三〇代の中頃に疲れで目が見えにくくなり、慢性胃炎で胃腸剤をよく飲んでいたことがあったが、特に持病はなく、健康で、定期検診でも特に悪いところはなかった。
また、精神病の既往歴はなく、血縁関係に精神病者、自殺者はいない。
(2) 太郎は、昭和六〇年二月二七日、川鉄病院を受診して、眼科で眼精疲労、内科で口唇の腫れ亀裂、不整脈と記録されている。
昭和六三年二月には、上腹部痛と両側の胸部痛を訴えて同じく川鉄病院を受診し、胃カメラでタコイボ状胃炎(慢性胃炎の1型)と認められている。(なおこの時のカルテには、たばこ一日四〇本、ビール一日二本と記載されている。)
(3) 太郎は、平成三年三月中旬より寝汗をかくようになり、四月には微熱が続いて、四月一七日川鉄病院内科を受診した。左胸部がしくしく痛むとも訴え、心電図、血沈、生化学的検査を受けたが異常はなく、右扁桃の腫大と三七度前後の微熱、全身倦怠感と記載されている。
四月二〇日には糖負荷試験を受け、境界型糖尿病、また前年より二キログラムの体重減が記載されている。内科の山西医師はこれに対し、全身倦怠や全身疲労の回復を図る目的で、ビタミン剤を処方した。
五月一一日、太郎は再度微熱、左胸部痛、ひどい寝汗を訴えて受診し、山西医師はビタミン剤では効き目がないとして、太郎を自律神経失調症と診断して、漢方薬の「柴胡加竜骨牡蛎湯」を処方した。
(4) 太郎は、三、四月頃から顔色が悪くなり、たばこの量も以前より増えた。
(四) 精神状態
(1) 平成三年二月末頃、太郎の元同僚の下山が水島出張に来た際、太郎が接待したが、それから二週間くらいした日の夜一二時頃、食事中の晩酌時普通の会話中に、突然「十分接待できなかったのはお前のせいだ」と怒鳴り、原告花子の頬を叩いた。翌朝太郎はそのことを覚えておらず、酒乱になったのではないかと心配していた。
(2) 太郎は、同年五月末頃の夜、食事中の晩酌時に、部下の石光から新婚旅行の土産を貰った話をしている時に、突然「結婚祝いが十分できなかったのはお前のせいだ」と怒鳴った。
(3) 太郎は、同年五月頃の夜、食事中の晩酌時、「人間の運命は生まれたときから決まっているのだろうか」と原告花子に話しかけ、花子が「そうかもしれないね」と答えると、突然「お前は課長と同じことを言う」と怒鳴り、ウィスキーグラスをテーブルに投げつけ割ってしまった。
(4) 太郎は、同年六月八日土曜日の午前一〇時頃起床後、「仕事が思うように進まない。死にたい気持ちだ。わしは馬車馬か」と誰に言うともなく怒鳴った。その後「さっきはどうかしてた。気が変になっていた」と原告花子に弁解した。
(5) 同年六月一五日土曜日は二男の高校の演劇大会の日であり、午後から大会のある岡山文化ホールへ出かける予定であった。
この日の朝、太郎は仕事を済ませてくると言って玄関まで行ったが、「会社へ行くのはやめた。少し横になる。」と言って、二男のベッドで休んだ。
午後から演劇大会に出かけて、二男の演劇の顧問の先生と会ったが、難しい顔で、普段と違い無口で挨拶程度しか話をしなかった。
(6) 同年六月一七日、一八日頃から、太郎は朝なかなか起きず、新聞も読まず、朝食も摂らずに、(それまでは会社で事務服に着替えていたのに)事務服を着て出勤するようになった。
(7) 同年六月一九日、太郎は午後一〇時過ぎに帰宅し、原告花子が仕事が一段落したのかと聞くと、「まるで駄目だ。ぼつぼつやっていく。」と答えたが、いつもに比して口数が少なかった。
12 平成三年六月二〇日の太郎の行動
太郎は、平成三年六月二〇日午前七時頃原告花子に起こされたがなかなか起きず、午前七時四五分頃にやっと起床し、朝食を取らず、作業服を着て会社に出勤し、日常の業務をいつもの自分の机ではなく窓際の作業机でやり、昼休みには稲木と将棋を指し、その後稲木の所に工場から製品が順調に出荷できない旨の相談に行き、午後四時四五分頃中ノ瀬作成のロールスケジュールに判を押したが、いつもなら中ノ瀬に内容を聞くのにこの日は聞かなかった。そして午後五時一五分頃被告水島製鉄所本館ビル六階屋上から飛び降り自殺した。その直前午後五時過ぎに部屋を出て廊下を歩いていく太郎とすれ違った石光には、太郎がうつむいて歩き、目が合わず、とても小さく見えた。
二 うつ病等について
証拠(<証拠・人証略>)及び弁論の全趣旨によれば、うつ病などについては、次のとおり認められる。
うつ病は、抑うつ気分と病的悲哀を特徴とする感情障害の状態(うつ状態)である。うつ病の主症状は抑うつ気分で、この他に不安、行動面の制止、思考の制止、自責感や卑小妄想、不眠・頭痛・食欲不振・性欲低下等の身体症状がある。
太郎の症状について、岡大医学部の青木助教授はうつ病、即ち国際疾病分類第一〇版でいえば、「気分障害」の中のうつ病エピソードF32であった可能性が高いと考えている。うつ病エピソードF32の基本的三症状として、(1)抑うつ気分 (2)興味と喜び喪失 (3)活力の減退による易疲労感の増大や活動性の減少があり、僅かに頑張った後でもひどく疲労を感じることが普通で、更に一般的症状として、集中力と注意力の減退 自己評価と自信の低下
うつ病エピソードF32は、軽症、中等症、重症と細分類されるが、林道倫精神科神経科病院の南雲医師は、その意見書において、太郎はその内中等症の診断ガイドライン(前記基本的三症状のの(ママ)内の二つ、一般的症状の内の三つないし四つ、持続期間最低二週間)を十分満たすものと考えている。
更に南雲医師は、太郎のケースにつき、古典的な病名ではあるが、疲弊うつ病(現在では反応性うつ病の内の消耗抑うつといわれることが多い。)を採りたいと考えている。疲弊うつ病とは、要約「長時間持続した情動緊張や繰り返される負荷などのような、いわば心因性の色彩の濃い原因によって自律神経系の代償不全が起こることによって始まる。発病は神経衰弱様の時期をもって始まり、次いで多彩な自律神経失調症状その他の身体症状が出現し、更に進んで内的焦燥、決断困難、注意集中困難などを伴う不安・抑うつを主とする病像に至る。また一部には諸精神機能の制止を伴う無気力・抑うつ病像が見られることもある。そして更に負荷が続けば、二次的に生気化(生命的な機能、活力、食欲、性欲などに障害が及ぶこと)が惹き起こされることもある。」と説明される。
うつ病の誘因としては、種々あるが過度の心身の疲労状態(消耗抑うつ)や目標達成による急激な負担の軽減(荷下ろし抑うつ)等があげられており、またいわゆる執着気質の人、即ち仕事熱心、凝り性、完全志向、几帳面、強い正義感や義務感の人に、うつ病親和性があるといわれている。
また、アルコール依存症の患者は、高い頻度でうつ病(二次性うつ病)を合併することが多いことが知られている。更に、アルコール自体、アルコール依存の有無とはかかわりなく、悲哀感を生ぜしめる作用を持つこともよく知られている。
うつ病患者の自殺率の高いことは周知の事実であり、うつ病は最も自殺しやすい疾病として古くから注目されている。特にうつ病が悪化する時及び逆に軽快に向かう時に自殺する事例が多い。
但し、浜松医科大学名誉教授である証人大原医師は、その意見書において、重症のうつ病でも自殺を企てる人は三分の一にすぎないと述べ、南雲医師もこれに賛意を示している。
更に、大原医師は、自殺は自らの意思に基づく行為であって、人格未熟な子供の自殺は別として、その行為に当たっては本人の責任も五〇パーセント以上はあることを考えておくべきであるとの見解を示している。
三 以上の事実に基づき各争点について判断する。
1 太郎の労働時間の過剰性について
まず、被告は、平成三年一月太郎の掛長昇進後、太郎を労働基準法第四一条第二号の「管理の地位にある者」として取り扱い、その結果掛長に対しては、一般従業員と異なり、原則として労働時間による拘束はなく、一般従業員に適用される所定労働時間を超える労働は、掛長自らの判断に委されていたと主張するのでこれについて判断するに、太郎は、管理職といっても条鋼工程課四〇名の内の課長、課長補佐に次ぐ一番下の掛長であり、その職務内容は、担当品種またはプロセスの業務総括、部下の育成、指導、労務管理等であり、年収も平成二年当時約七五〇万円でそれ程高額の給与を受けていたわけでもなく、掛長になれば時間外手当が出ない関係で一時は減収にもなるという状況であって、経営方針や労働条件の決定についての権限を有しておらず、職務遂行について広い裁量権を有していたわけでもなく、太郎は労働基準法第四一条第二号の「管理の地位にある者」には該当するということはできず、所定労働時間の拘束を受けるものと解すべきであって、被告の主張は採用できない。
前記認定事実によれば、被告の所定勤務時間は午前八時三〇分から午後五時八分、昼休みが午後〇時から〇時四五分であったが、被告においては、平成二、三年当時、一般の社員は一月一七、八時間から二四、五時間までの残業手当を請求するのが通例であったところ、実際の残業や休日出勤はこれをはるかに超えているのが常態化していたものであり(いわゆるサービス残業)、更に、太郎の所属していた計画グループの社員では、午後一〇時、一一時までの残業、休日出勤は当然といった状況であり、太郎の前任掛長稲木は、掛長在職の平成二年四月から同年一二月まで、午前七時か七時三〇分に出勤し、午後一〇時前後に退社し、休日も午前九時、一〇時に出勤し、午後四時か五時に退社し、太郎の後任掛長滝澤は、形鋼の仕事は初めてであったが、掛長職に慣れるまでの半年間位は平均午後一〇時頃まで残り、休日も一ヶ月平均二、三回出勤していたが、仕事に慣れてからは午後七時から八時に退社し、休日も一ヶ月平均一回程度出勤していたものと認められる。
これに前掲各証拠、前記認定の太郎の業務、当面していた課題等の過重な責任を考慮すれば、太郎は、平成二年四月形鋼グループに転任となって後、午前八時三〇分までには出社し、帰宅時間は午後一〇時から一二時の間で、月二、三回は午前二時頃まで仕事をし、土曜、日曜にもほとんど出勤し、掛長昇進後は、午前八時前後に出社し、午後一一時から一二時に退社し、週二、三回は午前〇時を過ぎて帰宅するようになり、時には一週間続けて午前〇時を過ぎて帰宅することもあり、太郎が掛長昇進後会社に行かなかった日は、わずかに一月一日と六月一五日の二日だけであり、土曜、日曜も午前九時、一〇時には出勤し、午後九時、一〇時に帰宅していたものと認められ、太郎は掛長昇進後、被告主張の懇親会、私用等の時間を考慮し控えめに見ても、平成三年一月から死亡時の同年六月二〇日まで、少なくとも平日(一一三日)は一日当たり五時間、休日(五六日)は一日当たり一一時間の時間外労働をしていたもので、これに右期間内の平日の所定労働時間約八九〇時間(一日七時間五三分×一一三日)を加えると太郎の労働時間は約二〇七一時間となり、これを年間に引き直すと四四二〇時間となり、過労死の年間平均労働時間三〇〇〇時間(<証拠略>)を超え、所定労働時間の約二・三倍であって、社会通念上許容される範囲をはるかに超え、常軌を逸した長時間労働をしていたものというべきである(被告は、掛長昇進後の太郎の業務内容は客観的には質量ともに太郎に過重な負荷を強いるものではなかったと主張し、その論拠として、掛長代行としての掛長業務の体験や新任掛長研修等の被告の配慮、形鋼グループの各課題も直接の担当者がいて、太郎に直接または大きな負荷がかかるというものではなく、一人で責任を負担しなければならない問題ではなかったこと、太郎死亡後の業務の処理状況等を挙げるところ、確かにそのような一側面があったことは否定できないものの、前記認定の事実関係及び太郎の責任感が強く会社の方針に積極的に応えていこうとする姿勢からすると、太郎には掛長昇進後その前に比べて、業務上の負荷が増大し、これが太郎の長時間労働に至った主たる原因の一であることは明らかであって、被告の主張は採用し難い。)。
2 太郎の業務と自殺との因果関係について
(一) 前記認定事実によれば、太郎は、平成二年四月、形鋼グループに転任してきた当時は、その中の計画グループに属し、グループのトップ、掛長補佐的な立場にあって、当時は稲木が形鋼グループの掛長をしており、稲木には片腕となる太郎がいたこと、大形工場には手慣れた青木もいたこと、掛員も太郎を含め四人いたこと等から、太郎は過労状態にあったものの過度な負担がかかるという状況にはなかったが、平成三年一月、掛長昇進後は主任部員として形鋼グループを担当し、計画グループ、命令グループ、進捗グループ全体を総括する立場となり、太郎の掛長昇進に伴い、大形工場を担当していた青木が他の部署に転出し、後任の中ノ瀬が大形工場の計画立案、工程管理に当たることとなったが、経験がなく、仕事の覚えが悪く、太郎は仕事を覚えさせるのに時間をとられ、また、太郎に代わって形鋼計画総括となった石光は太郎に比べて熟練度に劣り、更に前記のとおり被告の増産計画や四直化等勤務体制の大きな変更時の課題に取り組み、生産計画が未達成という重大な業務課題に直面し、これらもあって太郎は業務上の負荷が増大し、前記認定の長時間労働を強いられるようになり、同年三、四月頃には顔色も悪く、煙草の量も増えてきたというのである。
そして、右のような事実経過によると、太郎には前記の感情障害の状態(うつ状態)に符合する諸症状が窺われるほか、太郎には精神疾患の既往歴はなく、家族歴にも精神疾患のないことを考慮すれば、太郎は業務上の過重な負荷と常軌を逸した長時間労働により、同年三月から四月頃心身ともに疲弊し、それが誘因となって、うつ病に罹患したものと認めるのが相当である。しかし過重な労働条件は変わらず、うつ病は更に悪化して、太郎は、家庭内において原告花子に対し、数回突然怒鳴ったり、頬を叩いたりグラスをテーブルに投げつける等の暴行に及んだり、「仕事が思うように進まない。死にたい気持ちだ。わしは馬車馬か」と誰に言うともなく自殺の予兆ともみられる発言をしたり、「まるで駄目だ。」と自己否定的な発言をしたり、口数が少なくなって、朝なかなか起きず、新聞も読まず、朝食も摂らずに、事務服を着て出勤するようになるといったそれまでにはなかった異常な言動等をするようになり、健康面では微熱、左胸部痛、ひどい寝汗を訴えるようになり、疲労によるうつ病が進む中で睡眠不足もあいまって、同年六月には症状が増悪して、うつ病に支配された状態に至ったために、その結果として自殺したものと認めるのが相当である。
(二) これに対し、被告は、太郎の自殺は、本人の性格、アルコール、家庭問題等によって引き起こされたものであると主張し、太郎は責任感が強く、几帳面で、完全欲が強い特徴的性格から期待通りに部下が動かないという問題等について他の掛長なら時間をかけるなど適当に処理するにも拘わらず、自分が手を打てば事態は改善されるはずであると自己を鞭打ち続けて心身ともに疲労困憊に陥り、更にこの焦燥感を紛らわすために、毎日多量の飲酒をし、自ら睡眠時間を減らして正常な睡眠をとることができなくなり、太郎の収入の減少、原告花子の太郎に対する金銭面での抑制等の経済問題、長男の受験失敗等も原因して、平成三年三月頃、うつ病になり、その症状が同年六月中旬急速に悪化していき、同年六月二〇日自殺したものであるとする。
確かに、太郎は責任感が強く、几帳面で、完全欲が強い特徴的性格であり、また「メモ魔」と呼ばれていることや、ワープロを使用して丁寧かつ見た目も気にすること等から、仕事量を増やしたり、より時間を費やしたりした状況はあるにしても、前記のとおり太郎の業務、抱えていた課題等の過重な責任や被告でのサービス残業の実態等を考慮すれば、太郎の長時間労働は同人の性格に起因する一面は否定できないにしても、基本的にその業務の多さと過重さに由来するものと認めるのが相当である。そして、その労働時間が異常に長時間に及んでいたことを考えると、うつ病は太郎の性格もさることながら長時間労働による疲労という誘因が存在した結果であると認めるのが相当である。
次に、太郎は、掛長昇進後は、少なくとも一日に二〇〇ミリリットルないし二七〇ミリリットルのウィスキーを殆ど毎晩飲んでいたが、晩酌に一時間半位掛けていたのでそれが睡眠不足の一因になったと思われ、更に太郎が結婚当初から長期間大量の飲酒を重ねていたことから、太郎がアルコール依存症になっていた、ないしはその飲酒が太郎のうつ病及び自殺の何らかの原因になっていた可能性を否定することはできないが、太郎にはアルコール依存症とする所見は見られず、その他にもそれを窺わせるものは特にないことは前記のとおりであって、太郎の飲酒をもってうつ病の誘因と直ちにいうことはできない。(<人証略>も、アルコールと太郎のうつ病及び自殺との関係について、証明はできないと思うが、あると考えた方が普通である旨供述している。)
また、前記認定の事実関係を考慮しても、経済問題、長男の受験失敗(太郎の経歴、日常の発言等からして長男の大学受験は太郎にとって決して軽い問題とは思われないが。)等の太郎の個人生活、家庭環境に同人をして死に至らしめると合理的に推認できるような事情は何ら存在しないというべきである。
そして、前記のとおりの太郎の長時間労働、平成三年三月頃からの同人の異常な言動、疲労状態等に加え、うつ病患者が自殺を図ることが多いことを考慮すれば、太郎が常軌を逸した長時間労働により心身ともに疲弊してうつ病に陥り、自殺を図ったことは、被告はむろん通常人にも予見することが可能であったというべきであるから、太郎の長時間労働とうつ病との間、更にうつ病と太郎の自殺との間には、いずれも相当因果関係があるというべきである(なお、自殺には一般的に行為者の自由意思が介在しているといわれ、大原医師は、五〇パーセント以上自殺者本人の責任があるとし、更に重症のうつ病患者でも自殺するのは三〇パーセントにすぎないとするが、太郎の自殺は前記認定の事実関係の下では、うつ病による感情障害(うつ状態)の深まりの中で、衝動的、突発的にされたものと推認するのが相当であり、太郎の自由意思の介在を認めるに足りない。)。
3 被告の債務不履行の有無
(一) 一般私法上の雇用契約においては、使用者は労働者が提供する労務に関し指揮監督の権能を有しており、右権能に基づき労働者を所定の職場に配置し所定労働を課すものであるから、使用者としては指揮監督に付随する信義則上の義務として、労働者の安全を配慮すべき義務があり、本件では被告には雇い主として、その社員である太郎に対し、同人の労働時間及び労働状況を把握し、同人が過剰な長時間労働によりその健康を害されないよう配慮すべき安全配慮義務を負っていたものというべきところ、太郎は、前記のとおり、社会通念上許容される範囲をはるかに逸脱した長時間労働をしていたものである。
そして、太郎の部下の石光は、太郎について、平成三年三、四月頃から、顔色が悪く、煙草の量も増え、物忘れがひどくなり、疲れていると感じ、平成三年春頃、太郎から寝汗をかくようになったと聞いていたが、他の中ノ瀬、稲木、上司の橋本課長は太郎について、顔色が変わったとは感じておらず、橋本課長は、太郎の会社での態度に特別変わった点や異常な点については気付かなかったというのであるが、前記認定のとおり、被告においては長時間残業と休日出勤が常態化しており、太郎についても同様であることは、上司である橋本は把握していたはずであるところ、平成三年春頃、太郎が、川鉄病院から帰ってきた時、橋本は、太郎が疲れているように感じて、太郎担当の仕事を引き受けようかと言ったが、太郎がこの申出を断るとそれ以上の措置は採らなかったこと、更に太郎の業務上の課題について相談を受けながら単なる指導に止まり、太郎の業務上の負荷ないし長時間労働を減少させるための具体的方策を採らなかったこと、橋本は午後七時から九時の間に帰るため、以後の太郎の残業については把握する上司もなく放置されていたこと、太郎の休日労働も同様に放置されていたこと、そもそも、使用者の労働時間管理は、使用者が労働時間の実態を把握することが第一歩であるところ、被告には職員の残業時間を把握するための体制がなく、各職員は私的なメモに各人の残業時間数を書いて自己申告し、その時間も実際の残業時間より相当少なく申告するのが被告水島製鉄所においては常態であり、石光及び橋本の前記認識を考慮すると、被告も右事情を認識していたと認めるが相当であるのにこれを改善するための方策を何ら採っていなかったこと等に鑑みれば、被告には太郎の常軌を逸した長時間労働及び同人の健康状態の悪化を知りながら、その労働時間を軽減させるための具体的な措置を採らなかった債務不履行がある。(なお、原告らは被告における自殺者の多いこと、太郎と同じ形鋼グループの社員が相次いで健康を害していたことをもって、被告の太郎の自殺に対する予見可能性の論拠とするが、長時間労働がその一因である可能性は否定できないものの、これらと長時間労働の関係は明確には認め難く、その主張は採用し難い。)
(二) これに対し、被告は、社員に対する健康管理体制として、産業医の選任、年一回の健康診断、健康管理センターの設置、「健康づくり運動」の展開、メンタルヘルス対策の実施、健康相談窓口の設置等をしていることや、橋本課長が太郎の業務、健康等に配慮していたことから、安全配慮義務を尽くしているとするが、被告においては社員の自己申告に任せて労働時間の管理を行っておらず、社員が残業時間を実際の残業時間より相当少なく申告するのが被告水島製鉄所においては常態であり、被告も右事情を認識していたと認めるが(ママ)相当であることは前記のとおりであって、被告が用意した健康管理体制は太郎のような長時間労働者には機能しているとはいえず、そのような状況下では、被告主張の健康管理体制の準備があるからといって、社員の労働時間を把握し、過剰な長時間労働によって社員の健康が侵害されないように配慮するという義務の履行を尽くしていたということはできず、また橋本課長の配慮も単なる指導に止まったことは、前記のとおりであって、被告の主張は理由がない。
4 太郎及び原告らの事情の斟酌について
前記認定事実によれば、うつ病の罹患には、患者側の体質、気質、性格等の要因が関係していると認められるところ、太郎は仕事に厳格で、几帳面、完全志向、責任感が強く、常に仕事に前向きに向かうという姿勢で臨んでいたもので、太郎にこのようなうつ病親和性が存したことが、結果として仕事量を増大させ、より時間が必要になり、更には自己の責任とはいえないものまで自己に抱え込み責任を感じて思い悩む状況を作り出した面は否定できないこと(もっとも、一般社会では、このような性格は通常は美徳ともされる性格、行動傾向であり、これをあまり重視すべきではない。)、太郎は、社内的には、労働基準法第四一条第二号の「管理の地位にある者」であり、原則として労働時間の拘束を受けず、自ら労働時間の管理が可能であったのに、橋本課長からの担当の仕事を引き受けようかとの申出を断る等、適切な業務の遂行、時間配分を誤った面もあるということができ、更に太郎が毎晩相当量のアルコールを摂取し、そのため時間を費やしたことが睡眠不足の一因となったこと等から、太郎にもうつ病罹患につき、一端の責任があるともいえること、太郎は家庭内ではうつ病によると見られる異常言動があったものの、被告(会社)内では特段の異常言動が認められなかったこと、太郎は川鉄病院で服薬を指示され、投薬後微熱及び寝汗の症状が改善されていないにもかかわらず、医師にその旨を申し出ず、自らの判断で受診を中断したこと、原告花子は太郎の長時間労働の実態を認識し、その異常言動に気付いていたにもかかわらず、単に会社を休むようにいったり、病院に行くよう勧めただけで、専門医の診察を受けさせる等適切な対応を怠ったこと、原告花子は、太郎の健康を考え、アルコールを止めさせて睡眠を十分とらせるべきであったにもかかわらず、アルコールを止めさせなかったこと等の諸事情(前記認定事実によれば、原告花子には太郎のうつ病罹患及び自殺について予見可能性があっものと認められ、太郎の右状況等を改善する措置を採り得たことは明らかで、かような場合、原告らが太郎の相続人として請求する損害賠償の額及び原告花子が請求する損害賠償の額につき、右の原告花子の事情を斟酌することは許されると解する。)が認められ、これらを考慮すれば、太郎のうつ病罹患ないし自殺という損害の発生及びその拡大について、太郎の心因要素等被害者側の事情も寄与しているものというべきであるから、損害の公平な負担という理念に照らし、民法七二二条二項の過失相殺の規定を類推適用して、発生した損害の五割を被告に負担させるのが相当である。
原告らは、太郎の執着気質あるいは性格がうつ病に罹患しやすい条件であり、このような気質や性格が遺伝的要素によりもしくは後天的に形成されたとしても、太郎がそのような気質や性格を有するに至ったことに責任はなく、このような気質や性格は、ごく普通に見られるもので正常人の持つ性格類型であって、これを損害賠償額を定めるに当たり斟酌することは相当でないと主張するが、うつ病の罹患には患者側の種々の要因が関係していることは前記認定のとおりであって、右主張は採用し難い。
四 損害
1 慰謝料 二六〇〇万円
太郎が死亡時四一歳で妻と子二人を残して死亡したこと、太郎が被告における業務に没頭した結果、うつ病に罹患して自殺するに至ったこと、その他本件に顕れた一切の事情を斟酌すれば、太郎の死亡による慰謝料としては右金額が相当である。
2 逸失利金 金六七七一万八四九二円
前記認定事実によれば、太郎の平成二年度の年収が七四六万七九七二円であるところ、太郎が死亡しなければ、同人は被告の定年である六〇歳に至るまでの一九年間につき、昇給等を考慮すれば、少なくとも右年収以上の収入を得ることができたと推認される。
更に、六〇歳から六四歳までの五年間、六五歳から就労可能年齢六七歳までの二年間については賃金センサス平成三年第一巻第一表男子労働者学歴計の年齢に応じたそれぞれ四一〇万五九〇〇円、三五五万三五〇〇円の収入を得ることができたと推認される。
そこで、太郎が六〇歳に至るまでは一家の支柱と認められることから、生活費として三〇パーセントを控除し、それ以降は生活費として五〇パーセントを控除し、ライプニッツ式により中間利息を控除して、太郎の死亡逸失利益の現在額を算出すると、四一歳から六〇歳までの分は六三一七万六八七七円、六〇歳から六四歳までの分は三五一万七三一九円、六五歳から六七歳までの分は一〇二万四二九六円となり、合計が右金額となる。
(計算式)
41歳から60歳まで 7467992×(1-0.3)×12.0853
60歳から64歳まで 4105900×(1-0.5)×(13.7986-12.0853)
65歳から67歳まで 3553500×(1-0.5)×(14.3751-13.7986)
3 医療費 二三一四円
弁論の全趣旨によれば、原告花子が医療費として右金額を支出したことが認められる。
4 葬儀費用 一二〇万円
弁論の全趣旨によれば、葬儀費用として原告花子が一四六万七二三五円を支出したことが認められるが、葬儀費用としては一二〇万円が相当である。
5 以上によれば、被告の負担すべき損害額は、太郎の慰謝料、逸失利益九三七一万八四九二円の五割に当たる四六八五万九二四六円及び原告花子につき医療費、葬儀費用一二〇万二三一四円の五割に当たる六〇万一一五七円となる。
そこで、右慰謝料、逸失利益四六八五万九二四六円につき、相続により、原告花子が右二分の一の二三四二万九六二三円、原告一郎及び原告二郎が右四分の一の各一一七一万四八一一円(一円未満切捨)の損害賠償請求権を取得したものということができ、そこに、医療費、葬儀費用六〇万一一五七円を加えると、原告花子は合計二四〇三万〇七八〇円の損害賠償請求権を取得したもと(ママ)のということができる。
6 弁護士費用
原告らが本件訴訟の提起遂行を原告ら代理人に委任したことは当裁判所に顕著であるところ、本件事案の内容、審理経過及び認容額等を考慮すると、原告らの本件訴訟遂行に要した弁護士費用は、原告花子につき二四〇万円、原告一郎及び原告二郎につきそれぞれ一一〇万円を認めるのが相当である。
五 結語
以上によれば、原告らの被告に対する請求は、原告花子に対し二六四三万〇七八〇円、原告一郎及び原告二郎に対しそれぞれ一二八一万四八一一円、及び、これらに対する太郎の死亡の日である平成三年六月二〇日から支払済みまで商法所定の年六分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから、これを認容し、その余は理由がないからいずれも棄却することとし、訴訟費用の負担については民訴法条(ママ)六一、六四条を、仮執行の宣言については同法二五九条一項を各適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 濱本夫)